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新幹線ホーマー :1993年のオフにハワイ・ウィンターリーグでヒロ・スターズというチームで優勝し、リーグ初のMVPに選ばれた。カウアイのヴィディンハ・フィールドで推定飛距離500フィート(152メートル)の本塁打を打った。地元では「新幹線ホーマー」と呼ばれている[39]。 会いたい前田さん :プロ入り以来「一番会いたいのは“前田さん”」と話していた。広島東洋カープの前田智徳のことである。1994年にオールスターゲームに出場した際、前田との初対面を果たし握手を交わしたイチローは、満面の笑みを浮かべていた。札幌 ビジネスホテル 投手イチロー :1996年のオールスター戦の9回2アウト、打者松井秀喜(当時巨人)のところで、パ・リーグの仰木彬監督は、スピードガンコンテストで146kmをマークしたことのあるイチローを投手に起用。イチロー対松井の夢の対決を期待したファンが大歓声を送った。しかし、セ・リーグの野村克也監督が代打に高津臣吾(当時ヤクルトスワローズ)を送り、結果はショートゴロであった。これはオールスターをファンにとっての最大のエンターテイメントと考える仰木監督と、選手にとっての栄誉ある舞台と見る野村監督との考え方の食い違いによるもので、野村監督は野手を投手として送り込むのは、対戦する打者にとって最大の侮辱と捉えていた。後日これに関して野村監督は「ふざけている」とコメントした。 o 投手イチローのいるゲームソフト :このエピソードを反映してか、翌1997年にナムコ(現・バンダイナムコゲームス)から発売された『ファミスタ64』において、オールスターモードでイチローを投手として登板させるという裏技が搭載された(同時期に投手・打者の二刀流として話題になった嘉勢敏弘も同様の裏技が搭載された)。 o 白けた :上記の事例に関してイチロー本人は長年沈黙を守っていたが、比較的近年になって「松井とマウンド上で対戦できるしびれる場面に水を差されて、一気に白けた」と当時の胸の内を明かしている。北海道旅行 イチローシート :1996年から2004年まで、神戸総合運動公園野球場にイチロー・シートを毎年20席(約140万円分)設置し、神戸の野球少年を招待していたが、同年の球界再編騒動でオリックスブルーウェーブが大阪近鉄バファローズを吸収合併。オリックス側も05年以降のイチローシートの購入を求めていたが、自分の育った球団はブルーウェーブでありバファローズではないという理由で購入を拒否した。沖縄旅行 慈善活動 :1998年には出身地の愛知県に社会福祉のために1000万円、兵庫県には震災復興のため1000万円を寄付。2000年には豪雨によって被害を受けた愛知県にトレーナー、パーカーを合計1000枚、Tシャツ500枚(計1300万円相当)を贈るなど慈善活動にも熱心である[40]。 スペアリブ :1999年のシーズン前に星野伸之、戎信行と一緒にシアトル・マリナーズの春季キャンプに参加した[41]。そのときに食べたスペアリブに中(あた)ってしまい、体調を崩して結果が思うように出せなかった。以来、口に入れるものは疑うようにしている[42]。なお、この時の腹痛は熱いほうじ茶を飲んで治したという。また、このシーズンに通算1000本安打を達成した際、当時マリナーズに所属していたケン・グリフィー・ジュニアは「メジャーでも通用する。唯一君の前に立ちはだかるものはほかならぬスペアリブだよ」とコメントを寄せている[43]。 三塁手イチロー :1999年の試合では、選手が足りなくなり、三塁を守ったことがある。しかし、守備機会はなかった。石垣ホテル・石垣島宿泊 悪球打ち :2000年5月13日のロッテ戦(グリーンスタジアム神戸)、1回裏の打席で後藤利幸の投じたワンバウンドの悪球を打ちにいき、ライトに運んでヒットにした。 バースに迫る打率(その1) :2000年シーズン、79試合目を終えた時点でも打率.401を残すなど高打率を維持し、規定打席に到達して以後も.390台をキープ、最も高いときで.398を記録していた日もあった。しかし、その後徐々に下がっていき、打率.3873のときに故障して戦線離脱した。同年はそのままシーズンを終えたが、あと1打席に立って1本安打を放った後で故障していた場合、打率.3888でシーズンを終了していたことになり、1986年のランディ・バースが持つシーズン歴代最高打率(.3885)を超えていた。 o バースに迫る打率(その2) :また、210安打を放った1994年は、主に1番打者として全試合打席に立ち続けながら、50試合目以降からシーズンを終えるまで常に打率.380以上を維持した。特に63試合目には打率を4割台に乗せ、69試合目まで7試合4割を継続している。70試合目以降は.380台後半から.390台後半のあいだをうろつき、規定打席に到達した後も.390台を推移し、126試合目を終えた時点でもバースの打率を超えていた。しかし、127試合目、128試合目で共に5打数無安打に倒れ、打率を.380台前半まで下げた。これが響き、最後の2試合でそれぞれマルチヒットを放ったものの、結局バースの打率には届かなかった。 オリックスの51番 :現在、オリックスでは背番号51は誰もつけていない。また、その後のイチローの功績から考えると、現役選手を引退した場合、51番が永久欠番になるのは確実と見られている。 マリナーズ時代 道徳教材 :2004年、小学5年生の道徳副読本の題材に登場、連続試合出場の「継続」の大切さを伝えた。 2006WBC決起集会 :2006年のWBCでは、疑惑の判定で敗れたアメリカ戦後に決起集会を開いてチームを鼓舞した[44]。その際、出席者全員分の食事代を一人で全額負担した[45]。 ファッション誌のモデル :2006年4月28日に日本で発売された、フランスの最高級ファッション誌『ロフィシェル』日本版6月号に、モデルとして出演した。 マリナーズの顔 :2007年にESPNが行った「マリナーズの顔は誰?」というアンケートで投票総数3万4166票中、96%の票を集めて1位に選ばれた[46]。 レストランの予約とMVP :2007年のオールスターゲームにおいてランニングホームランを決めた後、イタリアンレストランの予約を入れていたために球場から出て帰ろうとしたところ、スタッフから「MVPに選ばれるかも知れないから帰るな」と引き留められて球場にとどまり、MVPを受賞した[47]。 無断広告 :2007年11月27日、写真入りの広告を無断で使用されたとして、台湾の広告代理店に損害賠償を求めていた訴訟の控訴審判決が、台湾高等法院で下された。同院は「台湾ではニューヨーク・ヤンキースの王建民投手(台湾出身)の知名度に及ばない」などとして、500万台湾ドル(約1700万円)の支払いを命じた1審判決を大幅に減額し、100万台湾ドル(約340万円)の支払いを言い渡した[48]。 マリナーズのベストナイン :2008年1月、マリナーズの公式サイトが発表したチームの歴代ベストナインで、「右翼手」で選出された[49]。 内野守備 :2008年8月17日、同点の9回裏1死2,3塁という場面でメジャー移籍後初めて内野(二遊間)の守備位置についたが(5人内野シフト)、四球で満塁になったところで外野に戻り、守備機会はなかった。 ユンケル専用 :佐藤製薬のユンケル黄帝液を長く愛飲しており、特注で作った専用ケースに詰めて遠征時には必ず持っていくという[8]。 長者番付 :米国のスポーツ専門誌『スポーツ・イラストレーテッド』が発表した「スポーツ選手長者番付」によると、2006年度の年収は2250万ドル、2007年度の年収は2400万ドルである[50]。2008年度は2760万ドルだった[51]。 体脂肪率 :徹底した自己管理で、34歳になった現在でも20歳代のころと変わらぬ体脂肪率6?7%を維持している[52]。高速バス 通訳の件 :インタビューなどで全く英語を話さず通訳を通しているため、日本のみならずアメリカのファンから「英語を習得できていないのか」とよく批判されている。しかし、英語でファンやチームメイトとコミュニケーションをとる姿が多く映されており、アメリカ代表として来日した2002年の日米野球戦の記者会見でも、ニューヨーク・ヤンキースのジェイソン・ジアンビに「アメリカ代表なんだから英語で答えろよ」とからかわれ、「shut up!(うるさいよ!)」と笑って即答している。通訳を通すのは、ファンや記者によりわかりやすく正確な英語で伝えるためであるとのことである。 その他湘南 不動産 幽霊の正体 :イチローが高校生であったころ、母校・愛工大名電に近在の神社では夜ごと幽霊が出るとの噂が立っていたらしいが、その正体は、素振りをするイチローであったという話が残されている。 ルーキー時代の計画 :1992年当時、オリックスの2軍打撃コーチであった河村健一郎は、イチローら新人選手たちにレポートを提出させた。するとイチローは「12年間で2000本安打を達成する」と書いていたという。そのレポートから12年後の2004年、イチローは日米通算2000本安打を達成している。